肉体逝くといえども 法身まします 【11月の言葉】

肉体逝くといえども
法身まします
[住職感話]
 この法語は、17年前、父・前住職の葬儀にいただいた弔電で、たった一行この言葉のみがしたためてありました。衝撃が走りました。
「ああ、そうか、父の肉体は確かに逝ってしまった、しかし、仏様となって、今、私の目の前にいるんだ。」と受け取らせていただき、この言葉に何度も何度も支えてもらいました。
 現在私は、この法語を一歩進めて次のようにいただいています。
 人間は亡くなったらどうなるのか。親鸞聖人は「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり(どんなに名残り惜しく思えても、この世の縁が尽きて、なすすべなくいのちの終焉を迎えるときに、阿弥陀の浄土へまいることができるのです)」『歎異抄』と教えくださっています。
娑婆の縁が尽きるとは、不可思議にも結ばれていた肉体(縁)がほどけて浄土へまいる。このほどけることを「ほとけ(仏)」と呼びます。「いのちの本質・本体は、見える肉体の世界ではなく、見えない精神(意識)の世界にある。見える世界(穢土・娑婆)と見えない世界(浄土・極楽)は断絶しているように見えて、実は交流(循環)している一つの世界。私たちの意識はいつもその両方の世界を行き来している。
したがって、父の肉体は逝ったが、「いろもなくかたちもなく目に見えず、こころでもことばでも表現できない光・いのち」という法身となって、私と共に存在する。
だから、父はいる。ただ見えなくなっただけ。