2025年8月のことば
【住職感話】
農民詩人と呼ばれる村上志染に「水馬(みずすまし)」という詩があります。
濁れる水辺 方一尺の天地
水馬 しきりに円を描ける
汝 いずこより来たり
いずれに旅せんとするか
ヘイ、いそがしおましてなー
これは、みずすましに譬えた私たち人間の一生のお話です。一辺が30センチ程の水たまり。その水たまりを自分の世界として、みずすましがせわしなく動き回っています。あたかも損や得や、善や悪や、勝ちや負けや、成功や失敗や、と振り回されているかの如く。ある人が「あなたはどこからきて、どこへ行こうとしているのか。まもなく干上がってしまう狭い水たまりの中で、いのちを終わってゆかねばならないのだよ」と問いかけました。するとみずすましは、「忙しくてそんなこと考えていません」と答えた、というお話です。
思わず笑ってしまいました。なんと浅はかな、そしてなんと愚かなことか。しかしながら、みずすましは、まさしく私のことだ。ああ、「どこから来て、どこへ行くのか」は人生の一大事でありました。
もうすぐお盆ですね。亡き人たちが、大事なメッセージを秘めてこの娑婆へかえって来てくれます。「私たちは、浄土から生まれて来て、浄土へ帰って行くのです。忙しいと言って心を亡くしていると、思いがけずいのちを終わってゆかねばならないのだよ。どうか浄土(いのちの故郷)を見つけて、心身の支えにして生きておくれよ」と。
