2025年1月のことば
順よ、人生には遊びが大事やぞ
後藤宣一
【住職感話】
この言葉は、三十年程前に亡き父が私に語ってくれたものです。当時は、遊び人の戯言と高をくくっていました。なぜなら、一般論としてはその通りだが、父がそれを言うと、父が遊びに行くための免罪符にしているように聞こえたからです。当時、携帯電話はなく、一度外へ出てしまうと連絡が取れなくなり、特に枕経の依頼が来た時には、母は門徒からの度重なる催促に困り果てていたのです。
やがて、単なる遊びだけではなく、ゆとり、間が必要なことがわかってきました。車の運転で譬えると、アクセルに遊びが無いと急発進します。ブレーキに遊びが無いと急停止します。ハンドルに遊びが無いと急旋回します。まるでF1で一般道を走っているかの如くで、あちこちでぶつかり、肉体的にも精神的にも怪我だらけになってしまいます。
ところが、近頃、思いがけない遊びを発見したのです。それが遊戯(ゆげ)です。遊戯とは、「何ものにもとらわれずに自由自在なこと。そして、仏の境地に遊ぶこと」をいう。さらに言えば、「仏の境地にあって、自在に人びとを導き浄土に往生させることを楽しむ。これは、心にまかせて超能力的になされるので、遊戯神通(ゆげじんづう)とも表現される」まさに、正信偈の「遊煩悩林現神通(煩悩の林に遊びて神通を現じ)」でした。父が遊戯を意識して語ってくれたのか、今さら確かめようがないのですが、父の言葉が無かったら、「遊び」というあり方、生き方に気づけなかったでしょう。今年は「遊び」をテーマに「さいしょの一歩」を踏み出します。