「生者」は命が終わると
「死者」として生まれる
[住職感話]
標題の言葉は、少し語句が違うかも知れませんが、
もう20年程前に、玉光順正師から教えていただきました。
その時は、死者が生まれるという表現が奇抜で、そんな表現の仕方があるのか、と驚かされました。
そして、ずっと気になる言葉として、胸の奥にしまっていました。
先日、ある30代の息子さんのお父さんが亡くなられました。
七日参りで、息子さんが「この中陰(49日)の間、一人ですが毎日、正信偈を勤めたいと思います」(実は、お母さんを早くに亡くされ、兄弟がいらっしゃいません)と仰いました。
私は、今どき30代の方が一人で正信偈ができるのは珍しいので、
「どうして正信偈ができるのですか」と尋ねたら、
「子どもの頃、両親とよく仏壇にお参りをしていたから」(御祖父さんか御祖母さんが亡くなられたのだと推察します)と語られました。
私は、なんと殊勝な方がおられることか、と思い満中陰で「よく49日間も毎日、一人で正信偈をお勤めされましたね」とねぎらったら、「いや、一人ではなく両親と3人で勤めました」と答えてくださいました。
その時、私は、「「生者」は命が終わると「死者」として生まれる」を思い出したのです。
ご両親は亡くなられても、無くなっていない、消え去っていない、「死者」として共に生きておられるのです。
実は、私も本堂で、よく亡き父の存在を感じます。
一人でお勤めしているのですが、父の声が聞こえてきて、一緒にお勤めている感覚になります。
また、法要の準備で仏具のお飾りをしていると、子どもの頃、お寺のお手伝いを嫌々させられたことを思い出し、苦笑いしながら、父の気配を感じつつ一緒にさせてもらっています。
死者と共に在る時、なんとも不思議な光、明るさを身に受け、いのちの安らぎに心温まります。