まことのみむねいただかん【お寺の掲示板】

2025年10月のことば
まことのみむねいただかん
               真宗宗歌
【住職感話】
親しまれている真宗宗歌の一節。その歌詞の意味がいっそう深く感じられるようになりました。そこで、今回は「まこと」という語について、思いをめぐらせてみたいと思います。
さて、私は本当に「まこと(本当のこと)」を拠りどころとして生きているだろうか。あるいは、まことでないものを「まこと」と思い込んではいないだろうか――そんな問いが心に浮かんできます。
そのとき、ふと「氷山の一角」の譬えが思い浮かびました。自分自身や社会のことを、私はどれだけ見えているか、知っているか。例えば、「ごはんを“食べる”」という行為は、料理の氷山の一角に過ぎない、と言われることがあります。表面に見えている「食事」は、たった十数分で終わることが多いですが、その水面下には、次のような営みが潜んでいます。「食材を選び、買い物をする」「献立を考える」「調理の時間や手順」「後片付け、洗い物、ゴミ処理」。こうした、表には現れにくい膨大な手間と時間があって初めて「食べる」という行為が成立しているのです。料理を担う方々の「毎日の献立を考えるのが本当に苦痛だ」「片づけやゴミ処理がいやになる」といった声が、そうした見えない部分の重みを物語っています。
このように、私が「見えている・知っている」と思っているもの ―― すなわち人知(人間の知恵・頭の知恵) ―― は、実は全体のごく一部分にすぎず、残り九割が、見えていない・知りえない、仏智(仏さまの智慧・いのちの智慧)の世界に属しているのではないか、という思いに至ります。
そう考えると、「まこと(本当のこと)」とは、私たちの目に映らない部分――深い智慧や真理――を指しているのではないでしょうか。だからこそ、私たちは限られた人知にとどまらず、“仏智”に導かれて生きることが大切なのだと思うのです。