2024年9月のことば
自分が悲しいのと、
自分を悲しむのとでは、
次元が違います
米沢英雄
【住職感話】
もう35年ほど前になりますが、私は大谷大学を留年して、本来4年のところを5年かけてやっと卒業できました。その時は、あらゆる言い訳を駆使して、誰かを悪者にして、誤魔化し開き直っても、それでも、自分が惨めで恥ずかしく悲しかったです。実は、未だに単位を落とす夢を見て飛び起きることがあり、あの挫折はよほど堪えたのだろうと思います。これは、自分の思う通りにならなかったので悲しんでいるのです。言い換えれば、自分の思い通りにしたい、自分さえよければよい、自分以外のものはみんな自分にサービスすべき存在であるという心。一言で言えば、自分がかわいいのです。
では、「自分を悲しむ」とはどういうことでしょうか?
先ほどの留年を知った両親は私を悲しんでくれた、と想像できます。もちろんその前に、情けなかったり、馬鹿らしかったり、腹立たしかったりしたと思います。しかし、もしかしたら、私以上に悲しかったかもしれません。このように、自分のことを悲しんでくれる親がいてくれたことを知りました。
さらに、もう一人悲しんでくださる方に出遇いました。そう、それは仏様です。
「自分が悲しい」「自分がかわいい」立場でしか見ることができない私を見守ってくださる存在。太陽、月、大地、空気、水の如く私を支え助けてくださっている「仏様の悲しみ」に気づきました。そんな仏様から見られた「自分を悲しむ」という、今は次元の違う立場を賜っています。