仏法の鏡の前に立たないと
自分が自分になれない
二階堂行邦
[住職感話]
鏡の前に立つと、見えているのは鏡ですが、本当に見ているのは鏡に映った自分の姿です。鏡の前に立つとは、つまり自分の姿を見てみましょう、ということですね。最近、鏡の前に立つと、ひしひしと感じるのが、年を取ったな、ということです。いつの間にか53歳となり、白髪が増え、元々ぱっちりしていたわけではありませんが、瞼が下がって、目が三分の一ほど隠れてしまっています。若いころ少しは男前と思っていましたが(笑)、今はとても思えません。初老の姿に愕然とし、少しでも若く見える方法はないかと、考え始めます。
では、仏法の鏡の前に立つと、自分の姿がどのように見えるのでしょうか。自分の力で生きてきたつもりでしたが、自分の力で髪を白くしたり、瞼を下げたりしたわけではありません。大いなるいのちのはたらきが、年齢に応じて髪を白くしたり、瞼を下げたりしてくださっているのです。全くもって大いなるいのちのはたらきのお陰様、仏様に生かされてきたことに頭が下がります。生まれてこのかたずっと髪に支えられ、瞼に支えられ続けてきたことに感謝の念が沸き起こってきます。一見嫌な老いることも、天地いっぱいの大いなる恵みと受け取れてきます。すなわち、自分の力で生きている「自分」から、仏様に生かされている「自分」になるのです。すると不思議にも、老いていく私の姿も桜舞い散る春の風光も実は仏様の現れであり、仏様の説法といただけてくるのです。