見えるいのちは亡くなっても、 見えないいのちは生きている。

2022年2月のことば
見えるいのちは亡くなっても、
見えないいのちは生きている。
釋祐順
【住職感話】
先月に続いて、人は亡くなるとどうなるのか?
その答えの一つが、標題の「見えるいのちは亡くなっても、見えないいのちは生きている。」です。
“いのち”には主として2つの意味があります。
第1には、「生きている間、生涯、一生」「見えるいのち」です。
第2には、「生物が生きていくための元の力となるもの」「姿かたちをつくる元になるはたらき、力」「見えないいのち」です。
私は、まず、科学的視点で、「見えるいのち」を「質量、物質、肉体」と理解し、また、「見えないいのち」を「エネルギー、波動、気」と理解しています。
次に、仏教的視点で、「見えるいのち」を「色身(肉体)」と理解し、また、「見えないいのち」を「法身(不滅の法そのもの・本体)・阿弥陀のいのち・光・魂・心」と理解しています。
もう20年近く前になりますが、ある住職さんに教えてもらったお話です。おじいさんがお亡くなりになって火葬され、骨壺に入ったお姿で、ご自宅へ帰って来られました。
それを見た5歳の男の子のお孫さんが、「おじいちゃんの姿は見えないけれど心は見えるよ」と言ったのです。お孫さんは、おじいさんの「見えるいのち」が見えたのではなく、「見えないいのち」が見えたのだと思います。
お孫さんは、一体どれほどおじいちゃんに可愛がってもらわれたのか。
おじいちゃんは亡くなっても、どこかに消え去ったわけではない、「心」はそばにいる、共に在る、共に生きているのです。